《会津の冬(96)三島町・間方》売約
木版 45.5 × 90.8
[略歴]
1907(明治40)年 | 福島県河沼郡会津坂下町に生まれる。 | |
1911(明治44)年 | 4歳 | 父の事業が失敗したため、家族と共に北海道夕張に移住する。 |
1921(大正10)年 | 14歳 | 小学校高等科を卒業し、小樽市の薬局に奉公する。この頃、童謡をつくり雑誌に投稿したり、イラストを描いたりする。 |
1924(大正13)年 | 17歳 | 北海道ガス株式会社小樽支社の見習い職工となる。 |
1925(大正14)年 | 18歳 | 小樽の看板店「広告研究所」に転職、のち札幌の「宮田活動看板店」に移る。 |
1926(昭和元)年 | 19歳 | 父の命令で小樽に戻り、看板店を共同経営する。 |
1927(昭和2)年 | 20歳 | 看板店「看板のスズラン」を開業して独立、自営する。 |
1931(昭和6)年 | 24歳 | 上京し独学で油絵を学ぶ。 |
1932(昭和7)年 | 25歳 | 第9回白日会展に油彩を出品、初入選。 |
1933(昭和8)年 | 26歳 | 第1回東光会展に油彩が入選する。 |
1935(昭和10)年 | 28歳 | 第10回国画会展に油彩を出品、初入選。 |
1936(昭和11)年 | 29歳 | 安井曽太郎に触発され、初めて木版画を制作。第5回日本版画協会展に出品、初入選。 |
1937(昭和12)年 | 30歳 | 第12回国画会展版画部門に初入選、没年(平成9年)まで連続出品。 離郷後初めて会津坂下町の叔母を訪ねる。 |
1940(昭和15)年 | 33歳 | 《会津の冬》の第1号を制作する。 |
1944(昭和19)年 | 37歳 | 朝日新聞社に入社。 (1954年退社) |
1949(昭和24)年 | 42歳 | 国画会会員に推挙される。 サロン・ド・プランタン展に《ミルク》を出品、1等賞を受賞。 |
1951(昭和26)年 | 44歳 | サンパウロ・ビエンナーレに《凝視 (花)》を出品、サンパウロ日本人賞受賞。 三越にて「斎藤清創作版画展」開催、以後毎年開催。 |
1952(昭和27)年 | 45歳 | アメリカでの初の個展開催。 (ニューヨーク) |
1955(昭和30)年 | 48歳 | アメリカ・シアトル美術館で「斎藤清と彼の仲間たち展」開催。 |
1956(昭和31)年 | 49歳 | アメリカ国務省、アジア文化財団の招きでアメリカ、メキシコを訪問。各地の実技指導を実施、個展を開催。 京橋・中央公論社画廊にて、「第1回棟方志功・斎藤清近作発表展」開催。 |
1957(昭和32)年 | 50歳 | 第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに出品し受賞。 アジア・アフリカ諸国国際美術展に出品し受賞。「斎藤清木版画展」ワシントン・コーコラン美術館にて開催。 京橋・中央公論社画廊にて、「第2回棟方志功・斎藤清近作発表展」開催。 |
1959(昭和34)年 | 52歳 | 訪仏、パリに滞在しスケッチを重ねる。 |
1962(昭和37)年 | 55歳 | 「斎藤清版画展」のためニューヨーク訪問。 |
1964(昭和39)年 | 57歳 | ハワイ大学芸術祭に招待される。ホノルル美術館で版画展開催。 |
1965(昭和40)年 | 58歳 | 版画展のためオーストラリア訪問。帰途タヒチを取材する。 |
1967(昭和42)年 | 60歳 | インド文化省主催による版画展のためインドを訪れる。 |
1969(昭和44)年 | 62歳 | カナダ・グレータービクトリア美術館、アメリカ・サンディエゴ美術館で「斎藤清展」開催。 |
1970(昭和45)年 | 63歳 | 連作《会津の冬》最初の20点を発表。鎌倉市に転居。 |
1976(昭和51)年 | 69歳 | 福島県より県外在住者知事表彰を受ける。柳津町名誉町民となる。 |
1977(昭和52)年 | 70歳 | 「斎藤清展」のためチェコスロヴァキアを訪れる。 |
1981(昭和56)年 | 74歳 | 秋の叙勲で勲四等瑞宝章の栄誉を受ける。 |
1983(昭和58)年 | 76歳 | 「斎藤清展」神奈川県立近代美術館にて開催。 |
1987(昭和62)年 | 80歳 | 鎌倉市から柳津町に転居。 |
1995(平成7)年 | 88歳 | 国の文化功労者に顕彰される。 |
1997(平成9)年 | 90歳 | やないづ町立斎藤清美術館開館。11月14日永眠。 |