《聖徳太子画稿》 油彩 60.4×75.6 東京美術倶楽部鑑定証書
[略歴]
1881(明治14)年 | 0歳 | 12月29日、二荒山神社の神官であった小杉富三郎と妻・タエとの末子として、日光の山内で生まれる。本名は国太郎。 |
1884(明治17)年 | 3歳 | 国府浜酋太郎の養子となる。 |
1887(明治20)年 | 6歳 | 2月、実父・小杉富三郎が二荒山神社を辞し、年内に日光御料監守長となる。 |
1893(明治26)年 | 12歳 | 6月、小杉富三郎が日光町の2代目町長となる(~1897年2月まで)。 この頃、富三郎に連れられ、五百城文哉と出会う。以後、五百城のもとに通いながら洋画を学ぶ。 |
1896年(明治29)年 | 15歳 | 3月、栃木県尋常中学校を退学する。 5月、五百城文哉の内弟子になる(~1898年まで)。 |
1898年(明治31)年 | 17歳 | 8月、《昔語り》下絵制作のため、五百城文哉の紹介で興雲律院に滞在していた黒田清輝を知る。 この頃、五百城文哉に無断で上京する。 |
1899年(明治32)年 | 18歳 | この頃、白馬会の研究所に通うが、2日行っただけで止める。 秋、一度帰郷して五百城に謝罪し、再上京する。 10月、小山正太郎が主宰する画塾・不同舎に入る。同期に青木繁や荻原守衛らがいた。その後22歳頃まで東京と日光を往復し、日光で売った水彩画の代金で画材を買う生活を送る。 |
1901年(明治34)年 | 20歳 | 5月、国府浜家から離籍し、小杉家に復籍する。 この頃から未醒と号する。 |
1902年(明治35)年 | 21歳 | 太平洋画会の会員となる。翌年の第2回展から出品。 |
1903年(明治36)年 | 22歳 | 小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。 田岡嶺雲らの紹介で小川芋銭を識り、親交を結ぶ。 |
1904年(明治37)年 | 23歳 | 1月、近事画報社の特派員として朝鮮に派遣される。 2月から始まった日露戦争の様子を通信する。 9月、帰国。東京にいた姉弟と田端で暮らし始める。 11月、『陣中詩篇』を刊行する。 |
1905年(明治38)年 | 24歳 | 9月、石井柏亭、川上邦基らと美術文芸雑誌『平旦』を創刊する。 この頃、『近事画報』『新古文林』などの雑誌で、漫画家としても頭角を現わす。 |
1906年(明治39)年 | 25歳 | 6月、国木田独歩の仲人で、日光町七里の相良楳吉の長女・ハルと結納を取り交わす |
1907年(明治40)年 | 26歳 | 1月、『漫画一年』を刊行する。 5月、美術雑誌『方寸』が創刊され、寄稿する(1908年から同人となる)。 |
1908年(明治41)年 | 27歳 | 6月4日、長男の一雄が誕生する。国木田独歩が名付け親となった。23日、独歩が逝去する。 |
1909年(明治42)年 | 28歳 | 押川春浪ら武俠社の人々と交遊する。天狗倶楽部を結成し、スポーツ試合を楽しむ。 |
1910年(明治43)年 | 29歳 | 1月10日、長女の百合が誕生する。 10月、第4回文展に油彩画《杣》を出品、三等賞を受賞する。 |
1911年(明治44)年 | 30歳 | 10月、第5回文展に油彩画《水郷》を出品し、最高賞であった二等賞を受賞する。 |
1912年(明治45)年 | 31歳 | 5月、第12回无声会展に参加。日本画や焼絵の作品を出品する。 |
1913(大正2)年 | 32歳 | フランスを中心に、ヨーロッパ各地を遊学する。 |
1914(大正3)年 | 33歳 | 3月、満谷国四郎、柚木久太と滞欧作品展を開く。 7月、村山槐多がしばらく小杉家に居候する。 9月、再興された日本美術院に同人として参加し、洋画部を担当する。 10月、文展から独立した二科会に審査員として参加する。 |
1915(大正4)年 | 34歳 | 3月25日、次男の二郎が誕生する。 |
1916(大正5)年 | 35歳 | 2月、初めて沖縄を旅行する。 |
1917(大正6)年 | 36歳 | 春、初めて中国を旅行する。 10月、個展を髙島屋大阪心斎橋店で開催する。 |
1918(大正7)年 | 37歳 | 田端の文化人たちとの親睦会「交換晩酌会」が始まり、芥川龍之介らと交友する(1922年から道閑会となる)。 |
1920(大正9)年 | 39歳 | 9月、再興第7回院展の開催中、足立源一郎、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎ら、洋画部同人全員で脱退する。 |
1922(大正11)年 | 41歳 | 1月、日本美術院脱退メンバーを中心に、春陽会を創立。リーダー格として晩年まで同会を牽引する。 この頃、福井県の紙漉き師・岩野平三郎と親交が始まる。 |
1923(大正12)年 | 42歳 | 倉田白羊の雅号「放居士」から“放”の字をもらい、放庵と号す。 |
1925(大正14)年 | 44歳 | 東京大学安田講堂の壁画を描く。 |
1926(大正15)年 | 45歳 | 4月、室内社の西田武雄ら発起による、燕巣会の結成に参加する。 5月、第1回聖徳太子奉讃美術展に出品する。 |
1927(昭和2)年 | 46歳 | この頃、放庵の提唱により、漢学者の公田連太郎を中心とする漢籍勉強会「老荘会」が発足し、荘子や詩経などが講じられる。 4月27日、三男・三郎が誕生する。 10月、芭蕉の足跡を慕い、岸浪百艸居と東北・北陸を旅行する。 |
1928(昭和3)年 | 47歳 | 1月、富山県八尾町を旅行する。川崎順二の依頼により越中おわら節の新歌詞として「八尾四季」を作詞。これに振付がつけられ、「四季踊り」が完成する。 |
1929(昭和4)年 | 48歳 | 4月、小堀鞆音、荒井寛方らと栃木県出身の日本画家有志による華厳社を組織する。 この年、明治神宮外苑聖徳記念絵画館の壁画《帝国議会開院式臨御》を制作する。 この頃、岩野平三郎製の「放菴紙」を使い始める。 |
1932(昭和7)年 | 51歳 | 1月、新潟県妙高高原の赤倉温泉に別荘が完成し、安明荘と名づける。 2月、第1回六潮会展に招待出品する。 11月、個展を三越本店で開催する。以後、同店でたびたび個展を開く |
1933(昭和8)年 | 52歳 | 摠見寺(滋賀県)のために襖絵の制作を始める。1944(昭和19)年までに5点の襖絵を納める。 12月、初めての歌集『放菴歌集』を刊行する。この頃、放庵を放菴と署するようになる。 |
1935(昭和10)年 | 54歳 | 5月、帝国美術院の改組(松田改組)が行なわれ、帝国美術院会員となる。 10月、京城で個展を開催する。 |
1937(昭和12)年 | 56歳 | 2月、小川芋銭、矢野橋村らと、墨人会倶楽部を結成する。 6月、帝国美術院が帝国芸術院へ改組、会員となる。 |
1938(昭和13)年 | 57歳 | 11月6日、三男の三郎が逝去する。 |
1939(昭和14)年 | 58歳 | 4月、ニューヨーク万国博覧会に油彩画《僧》を出品する。 6月、第5回珊々会展に出品。以後、同会に参加。 |
1940(昭和15)年 | 59歳 | 4月、華中鉄道株式会社の招聘により、石井鶴三・田中青坪と共に、日中戦争の戦跡を取材する。 12月、石井柏亭、木村荘八、藤田嗣治らと、日本画を描く洋画家の団体・邦画一如会を結成する。 |
1941(昭和16)年 | 60歳 | 7月、第2回聖戦美術展に審査員として戦線スケッチを出品する。 |
1942(昭和17)年 | 61歳 | 10月、帝国芸術院会員絵画展に出品する。 |
1944(昭和19)年 | 63歳 | 2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展に《金太郎遊行》を出品する。 10月、軍事援護美術展(日本美術報国会主催)に《山翁奉仕》を出品のち日光小学校に寄贈する。 |
1945(昭和20)年 | 64歳 | 3月、安明荘に疎開。以後、この地で生活する。 |
1948(昭和23)年 | 67歳 | 11月、個展を日本橋髙島屋で開催する。 |
1951(昭和26)年 | 70歳 | 1月、「小杉放菴 書展」を大阪なんば髙島屋美術部画廊で開催する。 |
1956(昭和31)年 | 75歳 | 5月、青森県を旅行、桃川酒造を訪ねる。商標「桃川」の揮毫を頼まれ翌年書きあげる。 |
1958(昭和33)年 | 77歳 | 10月、日光市名誉市民となる。 11月、日本芸術院会員を辞任する。 |
1960(昭和35)年 | 79歳 | 日本橋高島屋で画業60年展を開催。 |
1964(昭和39)年 | 82歳 | 1月、「平櫛田中・熊谷守一・小杉放菴 三合会展」を大阪なんば髙島屋美術部画廊で開催する。 4月16日、82歳で逝去。法名は「放菴居士」。墓所は日光市所野の鳴沢左岸。 |