川上澄生 Kawakami Sumio

 

≪文明開化 横浜≫ 48.5×57.5 昭和37年頃作 

[略歴]

1895(明治28)年 横浜に生まれる
1916(大正5)年 青山学院高等学部卒業
1917(大正6)年 父の勧めで10月カナダのヴィクトリアへ行く
1918(大正7)年 鮭缶詰製造人夫としてアラスカのヘレンディーン湾の工場で働き帰国
1919(大正8)年 父の知人の経営する日本看板塗工株式会社に入社するが3ヶ月で中退する。
日本創作版画協会第一回展に《仮面舞踏会》を応募したが落選。
「中学世界」の表紙絵募集に採用される。
1921(大正10)年 石坂青山学院院長の世話で栃木県立宇都宮中学校の英語教師となる。
教員生活に入ると同時に長髪を止め坊主頭になる。その毛の伸び格好から「ハリ」「ハリネズミ」のあだ名となる。
野球部副部長を命ぜられ、その後退職するまで野球部長を続け栃木県中等学校野球の功労者として表彰される。
1922(大正11)年 北原白秋・山田耕作を主幹とする「詩と音楽」に詩を投稿、白秋の選で数編の詩が掲載される。 版画を独習する。
1923(大正12)年 9月1日の大震災で横浜の実家が罹災。父が小学5年の弟を連れて宇都宮に来る。
12月父の援助で宇都宮市外姿川村鶴田に家を新築。庭に朴の大木があったこから、かのボッカチオにあやかって「朴花居」(ぼっかきょ)と名付ける。
1926(昭和元)年 1月、素描社から深沢索一、平塚運一、川上澄生らをメンバーとした雑誌「デッサン」創刊。
2月第5回国画創作協会展に《初夏の風》出品。棟方志功に強い感動を与える。
宇都宮中学校の版画好きの生徒を中心として版画集「力」を年数回ずつ発行、これに毎回出品掲載する。
1927(昭和2)年 数え33歳を記念して詩画木版本「青髭」を限定33部自画自摺し、学校出入りの製本屋で制作。自作限定本の元祖である。
神戸版画の家から「川上澄生創作版画集」第1巻刊行。
1929(昭和4)年 創作版画協会会員となる。創作版画倶楽部より刊行の「新東京百景」に《銀座》《丸の内曇日》《青山墓地》《観兵式》《早稲田大学大隈候記念大講堂》《百貨店内部》を担当制作する。
1930(昭和5)年 弟の成多が宇都宮中学校を卒業し北海道帝国大学予科に入学。
7月平塚運一、前川千帆、逸見亨らと連刊版画集「きつつき」を創作版画倶楽部より創刊する。
1931(昭和6)年 6月恩地孝四郎、前川千帆、平塚運一らと卓上社版画展を開催出品する。
この頃から小出楢重の影響でガラス絵を始める。
佐藤春夫詩集「魔女」の装画をする。
1932(昭和7)年 ロサンゼルス芸術オリンピックに《野球大会之図》を出品。
1933(昭和8)年 9月に上野の日本美術協会で開催された「巴里に於ける日本現代版画展準備展」に《春の雪》など新作6点と旧作4点を出品。
1934(昭和9)年 青森創作版画研究会主催の版画展に《地球儀・本・洋燈》を出品する。
静岡で創刊された版画誌「飛白」に《朴の木問答》《私の肖像に寄せて》《静物問答》《人物》など問答形式の詩を掲載。
1935(昭和10)年 新潟県柏崎市の花田屋呉服店当主吉田正太郎との交際が始まり、その依頼で呉服店の団扇絵を製作。
1936(昭和11)年 現代日本版画展覧会(スイス)に出品。日本現代版画展(アメリカ他)に《時計》出品。
第11回ベルリン芸術オリンピックに《村童野球戯之図》を出品。銅メダルを獲得する。
日本民芸館の開館を記念した現代作家工藝品展覧会に出品。
1937(昭和12)年 塚田泰三郎とともに日本民藝館に柳宗悦を訪ねる。塚田、柳、浜田庄司とともに蒲田の芹沢銈介宅へ行き棟方志功も来る。
内田百閒と会食のため上京。
新日本百景の頒布会。
1938(昭和13)年 小坂千代と結婚。
初めての個展(宇都宮商工会議所)を開催する。
1939(昭和14)年 長男不盡(ふじ)誕生。
工藝96号が「川上澄生特集」として刊行される。
1940(昭和15)年 父英一郎没。
1942(昭和17)年 長女みふね誕生。
軍隊調が肌に合わず栃木県立宇都宮中学校を退職。わずか150円しか預金が無く卒業生らのカンパにより千数百円を贈られる。
退職の翌日より、家具商上野定一と塚田泰三郎の協力により、木活字の制作に取り組み、およそ800字制作する。
国画会17回展をもって、版画部同人に推挙される。
自刻木活字の第1作として、《南蛮船記》を35部製作。
1943(昭和18)年 民藝協会栃木県支部の発足に際し、浜田庄司と塚田泰三郎とともに発起人となり、支部の幹事をつとめる。
1944(昭和19)年 《幻燈》など9冊の絵本を私刊する。《時計》は戦時下にもかかわらず趣味的贅沢本の発刊と栃木県特高から呼び出しを受けるが、その係長が教え子だったため刊行が許される。
生活物資が乏しい中、版木を割り燃料の薪とする。
1945(昭和20)年 戦火を避け北海道苫小牧の岳父のもとへ疎開する。
次女さやか誕生。
宇都宮時代の同僚の安達三夫が校長を務める北海道庁立苫小牧中学校(現・北海道立苫小牧東高等学校)の嘱託講師となる。同校でも野球部のコーチを務める。
苫小牧美術協会に入会する。
全道美術協会の創立会員となる。
1946(昭和21)年 川上澄生版画展(苫小牧・町公会堂)開催。
国画会小品展(銀座三越)に出品。
1947(昭和22)年 北海道民藝協会が発足し、創立理事の一人となる。
川上澄生・棟方志功近代版画展(小樽スエヒロ民藝店・札幌三越・函館棒二森屋)を開催。
1948(昭和23)年 国画会秋季展(日本橋三越)に出品。苫小牧高等学校を退職。
1949(昭和24)年 栃木県宇都宮へ戻る。杼木県立宇都宮女子高等学校の講師となる。
個展(宇都宮・栃木県教育会館/県立図書館、日本民藝協会後援)を開催。
第一回栃木県文化功労章を受章する。同時に浜田庄司も授賞される。
1951(昭和26)年 この頃、宇都宮女子高校の生徒に染色を教える。
版画愛好の教職員生徒による版画誌「鈍刀」を創刊し、会長として第125号で没するまで出品を継続。
1952(昭和27)年 アメリカ移動展(サンフランシスコ、太平洋沿岸都市、サロン・ド・プランタン主催)に《南蛮船図》を出品。
国画会秋季展(日本橋三越)に出品。
1953(昭和28)年 坐骨神経痛が悪化し、1ケ月半立てず、この先父の遺した松葉杖を使うようになる。
川上澄生作品展(札幌・青盤舎ギャラリー)を開催。
バーナード・リーチ来日歓迎会に出席する。
1954(昭和29)年 宇都宮女子高等学校近くの操町1-34に引っ越し。屋根がトタン葺きであったことから、亜艶館(あえんかん)と号する。
1955(昭和30)年 『あびら川』を私刊し、亜艶館叢書第1冊とする。
1956(昭和31)年 川上澄生版画ガラス絵展(大阪・阪急百貨店)を開催。
1958(昭和33)年 栃木県立宇都宮女子高等学校を退職。
川上澄生作品展(宇都宮・栃木開館)を開催。
『版画』東峰書院を出版。著者略歴に「これからいよいよ版画家になる也」と記す
1959(昭和34)年 川上澄生作品展(日本橋・白木屋)を開催。
川上澄生作品展(大阪・三越)を開催。
NHK教育テレビに出演し、「明治以後の版画」と題し自作の版画について語る。
1960(昭和35)年 川上澄生版画あかり展(銀座・東京電力サービスセンター)を開催。
1961(昭和36)年 初めて長崎を訪れる。洋燈とガラス器の蒐集で知られるレストラン銀嶺や福砂屋を訪ね、スケッチする。
川上澄生燈色色紙絵展(銀座・ギャラリー吾八)を開催。
1964(昭和39)年 個展(宇都宮・上野百貨店)を開催。「アラスカ物語」を中心とする。
1967(昭和42)年 川上澄生版画展(日本橋・白木屋)を開催。
東京新聞「私の人生劇場」も挿絵と文が6回にわたり掲載。
勲四等瑞宝章を受章。
1968(昭和43)年 NHKテレビ「町から村から」に出演し、「版画のこころ」を語る。
川上澄生版画展 南蛮渡来・文明開化(東京田町・三菱自動車販売会社ショールームサロン)を開催。
1969(昭和44)年 個展(日本橋・三越)を開催。
栃木新聞社主催で「南蛮調十題」の作品頒布(毎月1点)が始まる。
川上澄生版画展(福島市中央公民館)を開催。
1970(昭和45)年 川上澄生作品展(札幌・丸善)を開催。
1971(昭和46)年 栃拓主催「女と洋燈十題」の作品頒布(毎月1回)が始まる。
川上澄生版画展(新宿京王バスターミナル画廊)を開催。
1972(昭和47)年 9月1日、心筋梗塞により自宅で逝去。享年77歳。
1992(平成4)年 鹿沼市立川上澄生美術館が開館する。