川合玉堂 Kawai Gyokudo

 

 ≪山村春日≫ 48.7×60.6 売約

東京美術倶楽部鑑定証書・修二シール

[略歴]

1873年 明治6年 愛知県葉栗郡外割田村に生まれる
1887年 明治20年 岐阜尋常高等小学校を卒業。9月、青木泉橋の紹介状をもって京都望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。
1890年 明治23年 勧業博覧会出品に当り、玉泉の玉と外祖父竹堂をとって「玉堂」と改める。11月、幸野楳嶺の塾、大成義会に入る。
1891年 明治24年 10月28日、岐阜県、愛知県にわたる大地震おこり、父不慮の死をとげる。享年66才。家財を整理し、母とともに京都に出て、油小路御池上ル照円寺境内の離れを借りて住む。
1893年 明治26年 4月、母急性肺炎のため死去、享年50才。親戚の大洞家の次女富子と結婚。
1895年 明治28年 9月、長男真一出生。京都開催の内国勧業博覧会出品の橋本雅邦作「龍虎の図」と「十六羅漢」をみて、深く感動する。
1896年 明治29年 4月、上京。橋本雅邦の門に入る。麹町一口坂に住む。
1898年 明治31年 10月、日本美術院創立、雅邦に従ってこれに加わる。
1900年 明治33年 2月、次男修二出生。長流画塾も盛んとなる。
1901年 明治34年 牛込若宮町に転居。
1902年 明治35年 三男圭三出生。
1906年 明治39年 五二共進会審査員に任命せられる。長女国子出生。
1907年 明治40年 3月、東京勧業博覧会の審査官。文展審査員に任命せられる。
1908年 明治41年 1月、師、橋本雅邦死去、享年74才。 玉堂を中心に芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ、爾後30年続く。
1909年 明治42年 長流画塾盛となり研究会とは別に展覧会本位の団体、下萌会が生れる。
1910年 明治43年 9月8日、イタリア万国博覧会鑑査委員に任命せられる。
1912年 大正元年 文展日本画部を二科に区分、日本画部第二科審査員に任命せられる。
1914年 大正3年 農商務省より大正博覧会審査員に任命せられる。
1915年 大正4年 5月19日、東京美術学校教授を拝命。10月若宮町の住宅落成。
1917年 大正6年 6月、帝室技芸員を拝命。
1918年 大正7年 下萌会を復活。東京美術学校日本画科主任に任ぜられる。
1919年 大正8年 9月、帝国美術院会員となる。
1920年 大正9年 10月、三男圭三死去。12月高等官三等に任ぜられる。
1922年 大正11年 5月、第1回朝鮮美術展覧会が開かれ審査員として京城に赴き朝鮮各地を巡遊。
1924年 大正13年 小堀鞆音、下村観山、山元春挙、竹内栖鳳、川合玉堂、横山大観、6人の淡交会生れる。
1927年 昭和2年 3月、従四位に叙せられる。
1928年 昭和3年 1月、昭和天皇御即位御大典用品として、悠紀地方風俗屏風の揮毫を拝命。11月記念章を授与せられる。
1931年 昭和6年 フランス、レジョン・ドヌール勲章を拝受。6月、イタリア皇帝よりグランオフイシエー・クーロンヌ勲章を拝受。
1932年 昭和7年 10月、正四位に叙せられる。
1933年 昭和8年 10月、ドイツ政府より赤十字第一等名誉章をおくられる。
1935年 昭和10年 6月、帝国美術院会員に任命せられる。11月、勲三等瑞宝章を賜る。
1936年 昭和11年 2月、帝国美術院松田改組なり、第1回展覧会開かれる。6月、東京美術学校教授及帝国美術院会員の辞表を提出。11月、平正改組による第1回文部省展覧会開かれる。
1940年 昭和15年 11月10日、紀元2600年式典当日、文化勲章をうける。
1942年 昭和17年 1月、俳句集「山笑集」刊行、木活和綴で俳句百句を収録。
1944年 昭和19年 7月、東京都下西多摩郡三田村御岳に疎開。12月更に古里村白丸に転ずる。歌集「若宮集」をつくる。
1945年 昭和20年 5月、牛込若宮町の住宅戦災にあい焼失。12月三田村町御岳に移り「偶庵」と称する。
1947年 昭和22年 11月、歌集「多摩の草屋」刊行。
1948年 昭和23年 11月、歌集「多摩の草屋」巻2刊行。
1949年 昭和24年 12月、歌集「多摩の草屋」巻3刊行。
1952年 昭和27年 3月、兼素洞の企画によって、玉堂、大観、龍子の三人展雪月花展を開催す。
1953年 昭和28年 4月、歌集「多摩の草屋」巻4刊行。8月、ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影、11月完成。11月、病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間制作を行わず。
1954年 昭和29年 3月中旬、病気回復。俚謡「御岳杣唄」を作詞。古関裕而作曲。
1955年 昭和30年 3月、兼素洞の企画によって、大観、玉堂、龍子三人展を開く。大観は松、玉堂は竹、龍子は梅の課題である。10月名誉都民に、11月青梅名誉市民に推薦される。
1957年 昭和32年 2月下旬、心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養、一時回復に向う。6月上旬から再び悪化し、30日午後零時40分急逝。(勲一等旭日大綬章を賜わる)